2004/03/12

イノセンス

イノセンス 監督/押井守 99分 2004東宝

☆☆☆☆

2032年の日本、愛玩用ロボット・ガイノイドが所有者を殺し自壊する事件が起きる。そこで九課からほぼ全身を義体化しているバトー、そして新しいパートナー・トグサの二人が捜査に当たる。
【ロボット工学三原則 人間の生命に危害を加えない限りにおいて、ロボットは存在しうる】この大原則を逸脱したのは何故なのか? 謎を解く過程でバトーらはさまざまなタイプの人に会い、その都度<私>というもの、を問い続ける。自分は「人形」ではなく「人」であるという確信は、危なっかしい思い込みによって、かろうじて支えられているのか。

<私>というものの存在を疑い電脳の中へ行ってしまった草薙素子の問い、ハッキングされて擬似体験を繰り返し見せらせることの、居心地の悪さ、は私たちが「現実」と名づけているもののを疑う行為だ。この映画は、「現実」って何だ?と観客への挑戦だろう。
さらにまた、押井監督の<私>というものとは? いのちとは?という探求に付き合う映画でもある。映画内では<私>=ヒトをヒトたらしめているものが、ゴーストと定義されている。どうやら突き詰めれば、ヒトがヒトであるためには肉体は不要らしい、それじゃ神様と同じじゃないか? 人は脳とその記憶を電子情報化したものだけで、果たして人だと言えるのか。生きている<私>を発見するためには、死者が合わせ鏡で必要。監督によれば人間にとって他者とは何かを考えるとき「他者として客体化させた機械」というコトバを思いつき、狂喜乱舞したとのこと。今回は他者が「人形」としてキーになり、つまり死者である。不安定で不完全な<私>を映し出すものが「人形」というわけだ。
私としては人間は肉体性がなくては人と言えない、と思いたい。肉体的に死なない人、だなんて永遠に在りつづけることも死と同じくらいに恐怖ではないか? 生が死の合わせ鏡でしかないなら、死なない=いのちがない、ということになる。こわい。こういう私のようなものは映画内では旧人扱いになるのだろうけれど。

ヒトと人形の表現の差はストーリーで大事なポイントとなるが、わざと「人形」らしく動くバトーやガイノイドの動きは素晴らしい。実写映画でのCGとCGアニメとの格差が縮まっていくに違いない。アニメはそもそも「人形」を描いて作り上げるものであることを考えると、この映画自体がアニメで映画をつくることを問うているのかも(この話に手をかけると深い穴が待っている・・・やめよう) で、人形が生きている(かのように)動いている、というのは、死体が動いている、とも言い換え可能であって、かなり気持ち悪い。突然動きを失った途端に「死」を見せつけるあたりも、なにやら怖い。

さて以下の引用は公式HPから。バトーらがこのようなセリフを連発しつつ、情報量の多い美しい映像で迫ってくる。
コトバに集中すると画面を見失い、しかしコトバの補完なく、画面だけでは全体が見えない・・・苦行のような99分。やはり鏡や生死に関わるものが多かった。「孤独に歩め・・・」は釈迦の言葉だったはず、でも村上春樹を思い起こさせる。全体的に文学部出身の私のツボ。ゼミのテーマにもオススメ。

□自分のツラが曲がっているに鏡を責めてなんになる
□鏡は悟りの具にあらず、迷いの具なり
□春の日やあの世この世と馬車を駆り
□シーザーを理解するためにシーザーである必要はない
□孤独に歩め…悪をなさず、求めるところは少なく…林の中の象のように
□その思念の総計はいかに多きかな、我これを算えんとすれどもその数は沙よりも多し
□忘れねばこそ想い出さず候
□秘密なきは誠なし
□生死の去来するは、棚頭の傀儡たり。一線断ゆる時、落々磊々
□寝ぬるに尸せず 
□未だ生を知らず焉んぞ死を知らんや
□何人か鏡を把りて魔ならざる者ある。魔を照らすにあらず造る也。即ち鏡は瞥見す可きものなり、熟視すべきものにあらず


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