また観て来ました。「ハウルの動く城」。うっかり日本語字幕付き(聴覚障害のある人向けだと思います)だったのですが、まぁそんなに気にならず。今回は、より原作を離れてこの作品を独立したものとして観るのが目標です。
友人kちゃんが、「ハウルはいい」と仰っておりましたので、そこらへんも確認したくて。
��::::::ネタバレあり::::::::
〇原作読みだと、ソフィーの物語とハウルの物語がそれぞれあり、という感触だったけど、改めて映画を観ると《ハウルの純情物語》だった。ハウル少年の満たされないココロを、いつか未来で救ってくれる少女を待ちつづけてる話。
〇だからハウルがソフィーを好きだというのは、運命だと思ってるからなんだねと合点承知。しかしソフィーはいつ「愛してる」なんて思うように? 空飛んだから? 緑のドロドロを出してるのをみてか? 私の不満はこのあたりにあるな。筋として《ソフィーがハウルを救う》ことが予定されているので、ソフィーがハウルを好きなるのも当然という流れがすでにあるとしか・・・
自分に自信がなくて地味な服を着た女の子が、恋をして素敵な女性になったんですか? でもあれは恋じゃなくて、母心でしょう。マルクルには母心でいいと思うけど、あーぁ、「愛してる」と言うならオトナの女になって欲しかったよ!
ハウルの髪色を(たぶん)もともとの色に無意識に戻し、弱さに向き合わせ、ココロを取り戻させました。で?ソフィーはどうなったの? ドレスが黄色になっても騙されないぞ。キスしても、全然「色」を感じない・・・ ハウルのコンパスみたいな黒パンツも全然セクシーじゃないしさぁ。オトナになれない少年と、少女ですらなさそうなお地味な子でもいいの。二人がそれぞれオトナになってくれさえすれば。それがソフィー側には足りないのが不満。
〇擬似家族の問題。ソフィーはオトナの女になる前に《産まない性=老人》《母親役&老人介護者》に。で、奥底には傷ついた少年を癒す記憶の中の少女であることが求められている。でもでも! 《オトナの女》はいないんですよ、家族に組み込まれた女の人は「女」じゃなくていいってことではないですか?
「女」といえば欲深い女・荒地の魔女か、妹のレティーだけど、レティーも油断すると誰かと結婚してママにされちゃいそう。危ない危ない。「耳をすませば」のラストでもビックリ仰天(「雫!結婚してくれ」)しましたが、本当に宮崎監督は男女モノがダメダメすね。
〇Kちゃん、ハウルは確かにカッコいいかもしれない。荒地の魔女に手をだそうとか思ったりしたらしいけど、ソフィーを待ってたんならピュア(・・・)でよかろう。いきなり「魔王」って言葉はいかがなものかと思いますが。何で王なんだ。ダークサイドに魅入られそうなんですか? 魔法使いなのにあんまり魔法を使わないのね・・・ 変身しすぎて戻れなくなるのと、魔力が強いってのはちょっと別じゃないでしょうか。謎めいてるのぅ
〇ハウルが花咲く湿地をプレゼントする場面は良いなぁ。ソフィーは放っといて。ハウルの表情ったら、と胸がきゅうっとなるわ。あとはハウル初登場場面と、半ケツのハウルね。これら輝いているハウルと魔王になりかけのハウルとの差がどうやって生まれるのか分かりませんでしたが。
〇久石譲の音楽は哀しみも含んだような曲で、良かった。だからこそ本当に惜しい ソフィーが母親すぎるのが(こればかりで申し訳ないけど。
えー、何でしょうか。愛憎入り混じった感想。ジブリ作品のなかではホームランにはならなかったです。「愛する喜び」っていうコピーはズレてるだろう。監督の脳内では喜びあふれる場面もあったのかもしれませんが、映画にはあまり描ききれてなかったよ・・・